2010年5月1日土曜日

人類共通の原則

人類が何万年を生きてきたのかよくわかりませんが、その何万年かの間には、様々な生き方というものがあったと思います。

様々な生き方の中には、ある種の信仰があったりして、その信仰を基本にした生き方があったでしょうね。

一方で、支配する者とされる者という図式があったりして、そこには信仰だけでなく、政治や、人工的な原則が行われたりもしています。

そんなこんなで、私たち人類は、いかに生きるべきかという問題を、あれこれと複雑にしてきたようなところがあると思います。

いかに生きるか。この問題、実はとっても単純だったものです。どう考えれば単純に立ち返ることができるでしょうか。ちょっと考えてみてください。

子供は成長してだんだん大人になります。オスはメスが欲しくなって、メスもオスが欲しくなって結婚というか、後尾をします。そこにまた子供が生まれますが、生まれた子供は親になったオスとメスが育てることになります。乳をやったりして育ててやらないと、生まれてもすぐに死んでしまうんですから、育てないわけにはいきません。

そうやって、親子、家族という、とても小さな人の集まりができます。親は自分の食事を我慢してでも子供に食事を与えますが、そうした姿というのは誰の目にも美しく映り、それがもし逆で、子供が食べようとしているものを親が横取りして子供を飢え死にさせるようなことがあれば、それは誰の目にも大変に醜悪に映ります。

このようなことは、いつの時代でも、どこの国や民族でも、いつも共通の価値観です。

しかもこれこそが、誰でもいつでも絶対に共通する価値観ですから、この価値観の中にこそ、人類共通の原則があるはずです。

また、人類というのは言葉をもっています。言葉というのは、相手を必要とするものです。いっしょに暮らす他者があるからこそ、言葉が必要になるのであって、もし誰もいなくて自分ひとりだったら、言葉なんてものは必要なくなってしまいます。

もちろん通じない言葉もあります。海をわたったり山を越えたりすれば、全然通じない言葉を使っている人々がいます。しかしそれでも、通じないその言葉をなんとかして理解できるようになりたいと思うのが、私たち人類に共通の人情であるはずです。それは誰でも初めは赤ん坊で言葉というものを知らず、親や兄弟や隣人から言葉を習得してきたからでもあります。

ここにもまた、共通の原則があります。

共通の原則には、宗教や政治といった排他的な言動を生じさせうる思想はありません。宗教思想や政治思想は、本来あったはずの原則とは別の方法で集団を統率しようとするものですが、そうした思想に対して私たちは、全人類共通の原則を排除する危険性がないかどうか、しっかりと監視する義務を負うはずです。

全人類共通の原則とは、共存です。共に生きるというのが共存です。難しく考えるときりがありませんが、とにかく他者を排除せず、とにかく共に存在を認め合い、互いの存在を肯定しましょうという心があれば良いのだろうと思います。

文化が違う、言葉が違う、習慣が違って、道徳観もちょっと違う。「だから排除しよう」という結論を出すのではなくて、「だったらどうやって共存しようか」という知恵を出すこと。それが私たちみんなに求められているのではないでしょうか。


追記

誤解のないように書いておきますが、民主党政権で行われようとしている外国人参政権とか、外国に住んでいる子どもたちへの無制限な子ども手当などを支持するつもりは、筆者にはまったくありません。

国家は国民の家です。自分の家は自分の家であって、となりの人が好きに使って良いということがないのと同じです。

自分の家は隣の家と共存するべきもので、国家も隣国と共存すべきものでしょう。

個人があって集団があります。集団があって、国もあります。個人は個人と共存し、集団は集団と共存し、国は他国と共存するのが共存の原則でしょう。

自分の家を他人に明け渡さなければならないとか、国家の財産を外国人に明け渡さなければならないとかいった思想があるとすれば、それは明らかに間違っていると思います。