親米とか、親中とか、反米とかなんとか、自分の政治的な「立場」なるものを明確に示すことがカッコイイと、学生時代におぼえて粋がったりしますが、実際に世界のいろんな国の人たちと付き合ったり、いろんな国に出かけたり、長く滞在したりしてわかってくるのは、そんな「立場」がいかに不自由であるかということです。不自由というのは、行動上の不自由ばかりではなくて、考え方の不自由です。「立場」などを優先させると、発想や感じ方から不自由になって、ものごとを正しく理解するという自由を失ってしまいます。自由でなければ理解できないことがたくさんあって、その理解こそが何よりも大事なはずです。「立場」なんてものがあると、ものごとを偏った見方しかできなくなってしまいます。「立場」に都合の良いことだけを選り好みして、「立場」に都合の悪いことからは目を背けたり、感情的に反発したりすることになるからです。
かく言う筆者も、ほんの十年ぐらい前までは「○派」だの「○○主義」だのと気取って、自分の「立場」が正しいとしてくれる本を読んだり、同じ「立場」の仲間と議論したりものです。それはそれで楽しく、有意義な経験だったのかもしれませんが、ひとたび「立場」の異なる人が現れて議論を求められれば、それはお互いに高め合うことにはならず、ただ自分の「立場」を正当化するための自己弁護に終始してしまいました。今にして思えば、とても不自由な状態だったと言うほかありません。
自由であることは尊いことです。とはいえ、人は誰でも何らかの「立場」に立っていると見ることもできます。「中立」であろうとしても、それはそれで「中立」という「立場」に立つことになりますから、何の「立場」にも立たないというのもなかなか難しいことでしょう。
それでも私たちには常に、より自由にものごとを理解することが求められているはずですから、単なる自己防衛に陥っていないかどうか、自分を客観的に見ようとする姿勢を保つ努力が必要です。その努力を放棄してしまったところに自由はないはずです。




